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私達生物に関わらず万物は原子構造で出来ているなら
完全に静止していることはない、常に原子の周りを電子が
周回しているようにまた、原子間がその距離や位置を変えているように
つまり、時間と物質の移動とは同じとみなせる。
つまり全く構造がミクロレベルにおいても完全に静止した
状態が保たれれば、その間は時間が止まっていることと同義だ
物質の移動、変化が時間なのだから、それぞれに個別の変化が
あるため、個別の時間が相対化されるのだ。
日常的な感覚では私達は同じ速度と慣性系にいるため
地球という宇宙船に同乗しているため、ほぼ同じ時間を共有
しているように感じるだけだろう。
私達は地球上にいる場合、ある観測点からは常に超高速で
全ての原子が運動しているのだから。
つまり、時間とは人間の認知による世界を便宜上理解する
ための概念であって、宇宙に移動と変化はあっても
時間という実体はない。
人間が生み出した抽象的な概念である。
よって個人はそれぞれ個別の時間を持っていると言える
各個人の脳の神経の情報伝達やその統合された精神活動の
変化の度合いは異なるので、実際異なる時間を生きていると
言える(もちろん絶対的な時間などというものはないのだが)
結局、万物の変化を私達が勝ってに「時間」と呼んでいるだけなのだ。
自分に一体どんな責任があるのかという問いは
そのまま誠実に生きるということの具体的行動指針をあらわにするだろう。
責任を果たすということが誠実であるということだ。
各個人がその責任を果たすか否かが、その果たした結果の総量と質の積が
これからの非常に危うい進化のインフレーションが持続可能かどうかの分かれ目になるだろう。
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より分業的な方向に突き進む現代社会の職業の状況にあって
未だに全面的な精神活動を容易に体験できるのは
自給的規模の農業の特徴だろう。
あるタイプの人たちは、ある程度行った時に
これが「仕事」なのか「遊び」なのか分からない気分を味わうはずだ。
どんなに何もないと嘆く人でさえ
嘆くということができるなら
その心には使いきれないほどの豊かさを
生み出す何かが
まだ枯れ果てずに保たれている
それを認めるならば、何かをしないではいられないのだ
これではない、違うのだ
それを言い表そうとすると、途端にありきたりな言葉に置き換わってしまうけど
そうではないのだ
なにか、大事な、やらなければいけない・・・なにか、なにかがあるのだけれど
遊んでいても、心から楽しめない、ちがう、ちがうのだ、これではないのだ
なにか大事な、やらなきゃいけないことがあったのだけれど
だが、やろうとするたび、決まってなんだか微妙に的を外してしまう
やろうとしていたことは、これだったのかと、すぐにいぶかってしまう
でも、確かに何かがあったのだ
やらなきゃいけない、何だかとっても大事なことが
なにかが いつも私をせかす いつも頭の片隅で 小さいけれど 確かにずっと
とても大事なことのように思えたのだが、誰かに話した途端、よく似ているが
別のなにかに言いかえられてしまう
それでは何だか足りないし、何かが欠けているように思うのだが
周りの人々は、用意されたコトバで取りあえず当てはめたのでと、
食い扶持を稼ぐためにどこかに行ってしまった
ワタシも一旦モヤモヤを机から追いやって、稼ぐためのやりかけの仕事を広げようか
ところで一体何だか大事な、何か特別な、やらなきゃいけない
なんだかが、あったような気がするのだが、一体それは何だったのか?
一体今まで何回こんな気持ちを味わっただろう
一体これから何回こんな気持ちを味わって、そして死ぬのだろう
私の住む地域の広葉樹が大規模に枯れるという被害が
広まっている。
今まで、杉や檜、松などの針葉樹が伝染性の原因で枯れる
ことはあっても、広葉樹が広範囲に枯れるということは聞いたことがない。
新種の寄生虫が媒介されて広まっているという。
もしこれが誰かが意図的にやっているとしたら、その人物は
シナジーの効果をよく理解しているにちがいない。
どんなに無駄なことをしようとも
どんなに愚かなことと思われようとも
そのとき その状況で その人なりの判断で
その人なりの決断をしたのなら
やっぱりその行動は
それなりに認められるべきことだと
私は思う
例え 滑稽で稚拙であろうとも
それは その人の より良く生きようとした
なによりの証であると だれが否定できるのだろう
