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最も豊かな土壌として知られる腐葉土は、特殊な構造をしている。


いわゆる「団粒」構造というものだ。





小さな粒が集まってさらに大きな一粒を形作る。





それが大きな隙間を作り、その隙間や更に下のレベルの粒の隙間などの


大小さまざまな隙間が腐葉土の高いレベルの物理的・化学的・生物的


ホメオスタシスの維持を成し遂げている。





形が働きを意味しているということだ。







今、世界の金融のみならず衣食住でも国際的コングロマリットの一員たる大企業がこの地球上の資源を、本来なら個人が労働力を投入すれば「タダ」で手に入れられていた




それらのものと個人との間に、形而上的な課金メーターが取り付けられつつあるように感じるのは私だけだろうか。




実際、農業にしても種や苗の品種は個人が再生産できなくなっているのが当たり前の状態だ。




(採れた種を翌年蒔いても育成が悪くなったり、種を作らないものもある)




つまり、農業といえど大企業という自販機に金を投入しなければ種が手に入れられずしたがって大企業に金を支払い続けなければ生きていけない大衆が生まれてしまった。




それもこの数十年ほどというわずかな時間にだ(祖父母の世代は狭い地域社会の経済圏でも生命を保てるテクノロジーをみな見につけていた)




技術的に個人がアクセスできない生物工学のノウハウを大企業の社屋の中に抱え込んでいるその大企業の大株主達は、何もせずとも適法・違法に関わらない配当を半永久的に受け続けている。




まだ自然から富を得るリンクは完全には個人から切り離されてはいないが、もはや風前の灯かもしれない。




私達が生きて存在し、活動することの様々な状況で大企業に支払わざるをえない仕組みを作り上げることが、高度資本主義社会の実態だろう。


問題は、そのごく一部の配当を半永久的に受け取って、資源を独り占めしようとする者達のするに任せていては、私達は間接的・直接的に関わらず大部分が殺されるか、貧困な状態に叩き込まれるか、若しくは最悪の場合人類全体を道ずれに断崖から彼らも一緒に破滅してしまう、そんなことが空想とは思えなくなったことだ。


オバマ大統領が先日、国内の国民にアメリカ軍の実力行使を行う許可を与える法案に署名したことが、ちょっとしたネットだけの騒ぎになった(TVでは全く触れられなかったが)その一点を見るにつけても、この世界の真の支配層はこの見せ掛けの景気の復調で彩られたポーカーゲームのつけを舞台ごとひっくり返すことでリセットすることを、いよいよ実行に移すようだと思うのは妄想だろうか。




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「Think global, act local」は人類の進むべき道ではないと
梶川氏は言っている。

私の理解では、この言葉ではまず(個々がその立場で想定できる)全体像を
思慮してから、その全体像に反しない行為をする。

こういうことが、メッセージとしてあると思われる。

しかし、これは裏を返せば、権力機構が提示した全体のイメージに
「個々が世界の地域のそれぞれで、素直に従え」というメッセージであると思う。

それから導き出される行動はエコポイントの期限内に車を購入しようと
駆け込んだり、割り箸をマイハシにするとかビニール袋をナイロン袋に持ち替えるという
だけで、その他の生活スタイルは一切変える必要は無いという、暗示への裏返しだ。

また、梶川氏はそれに対してあるべき姿として、シナジーが働いた酸素と水素の結合と
その結果としての水の比喩をよく用いている。

この場合、個々の要素である酸素と水素には、その結合である水の性質を予感させるものは
一切無い。
酸素と水素の結合からなる水、この働きはシナジーである。
シナジーによってより秩序だった生命にとっての欠かさざる決定的な「水」ができ
その次の段階としてより秩序だった生命が形成されうるのだ。

これを酸素と水素=個々の個人、水=より秩序だった人類をより発展させる社会
と置き換えると、個々人は来る社会というか結果をその事前には予期できないということになる。
つまり、事前に予期できる概念、そのための行動は望ましい結果を決して創生しないということになる。

では、個々人はマスコミで繰り返される「Think global, act local」以外に一体何を行動すればいいのか
となる。

そこで、やはりヒントになるのは酸素と水素の自然の振る舞いを考察することになる。
酸素と水素は水を作ろうとして、互いが結合するわけでは「ない」。

それぞれが自然経済的(=決して金銭的経済ではない)により安定した形を、より少ないエネルギーで
成し遂げる原理(more with less)にしたがって結合したのだ。

つまり、個々人が自然経済的にmore with lessを行動原理として活動し始めたとき
シナジーが働き、人類の社会が酸素や水素が結合して水が生成されたことのように
全く予想できないが、より本来の意味での富を増やす方向の形に変化するだろうということだ。

これが、つまりはフラーが(more with less)を何度も主張したことの意味であるように思う。



トヨタやビッグ3などの自動車の大企業の利益の大半は、購入者のローン(=借金)だ。

建設会社や大手ハウスメーカーの利益も購入者の借金だ。

購入者は銀行からお金を借りる。

銀行は預金者からお金を借りていると思われているが、
実際はその預金の何十何百倍も貸すことができ、実際そうしている。

そのある種ペテンとも言える行為が破綻しないのは、
その背後にある中央銀行に銀行でさえ、お金を借りているので
預金者の払い出しにもなんなく対応できるのだ。


中央銀行は誰にもお金を借りなくてよい、自らがお金を作れる唯一の存在だからだ。

しかし、彼らもそのお金の裏付けの「富」は作れないので、所有権という法が必要なのだ。

お金とはつまりは法である。




「Think global, act local」は人類の進むべき道ではないと
梶川氏は言っている。

私の理解では、この言葉ではまず(個々がその立場で想定できる)全体像を
思慮してから、その全体像に反しない行為をする。

こういうことが、メッセージとしてあると思われる。

しかし、これは裏を返せば、権力機構が提示した全体のイメージに
「個々が世界の地域のそれぞれで、素直に従え」というメッセージであると思う。

それから導き出される行動はエコポイントの期限内に車を購入しようと
駆け込んだり、割り箸をマイハシにするとかビニール袋をナイロン袋に持ち替えるという
だけで、その他の生活スタイルは一切変える必要は無いという、暗示への裏返しだ。

また、梶川氏はそれに対してあるべき姿として、シナジーが働いた酸素と水素の結合と
その結果としての水の比喩をよく用いている。

この場合、個々の要素である酸素と水素には、その結合である水の性質を予感させるものは
一切無い。
酸素と水素の結合からなる水、この働きはシナジーである。
シナジーによってより秩序だった生命にとっての欠かさざる決定的な「水」ができ
その次の段階としてより秩序だった生命が形成されうるのだ。

これを酸素と水素=個々の個人、水=より秩序だった人類をより発展させる社会
と置き換えると、個々人は来る社会というか結果をその事前には予期できないということになる。
つまり、事前に予期できる概念、そのための行動は望ましい結果を決して創生しないということになる。

では、個々人はマスコミで繰り返される「Think global, act local」以外に一体何を行動すればいいのか
となる。

そこで、やはりヒントになるのは酸素と水素の自然の振る舞いを考察することになる。
酸素と水素は水を作ろうとして、互いが結合するわけでは「ない」。

それぞれが自然経済的(=決して金銭的経済ではない)により安定した形を、より少ないエネルギーで
成し遂げる原理(more with less)にしたがって結合したのだ。

つまり、個々人が自然経済的にmore with lessを行動原理として活動し始めたとき
シナジーが働き、人類の社会が酸素や水素が結合して水が生成されたことのように
全く予想できないが、より本来の意味での富を増やす方向の形に変化するだろうということだ。

これが、つまりはフラーが(more with less)を何度も主張したことの意味であるように思う。



トヨタやビッグ3などの自動車の大企業の利益の大半は、購入者のローン(=借金)だ。

建設会社や大手ハウスメーカーの利益も購入者の借金だ。

購入者は銀行からお金を借りる。

銀行は預金者からお金を借りていると思われているが、
実際はその預金の何十何百倍も貸すことができ、実際そうしている。

そのある種ペテンとも言える行為が破綻しないのは、
その背後にある中央銀行に銀行でさえ、お金を借りているので
預金者の払い出しにもなんなく対応できるのだ。


中央銀行は誰にもお金を借りなくてよい、自らがお金を作れる唯一の存在だからだ。

しかし、彼らもそのお金の裏付けの「富」は作れないので、所有権という法が必要なのだ。

お金とはつまりは法である。




変な時間に寝てしまった。
今起きたけどまた寝ようかどうしょう。



またまた雨です、ちっとも晴れません。
いつになったら晴れるんでしょう?




フラーのことを知ってから、「テクノロジー」という言葉に今までとはちがう


興味と印象を持たざるをえなくなっている。


 


wikiの「テクノロジー」の項目を読むと、「人類の歴史って結局「テクノロジー」の


発見、発展のログだよなあ・・・・・・」と思ってしまった。


 


アレキサンダーやカエサルやオクタウィアヌス、始皇帝や劉邦、チンギスハーン、徳川家康・・・・


歴史の覇者や為政者とかの偉業も地球の外からみれば、研究室でのシャーレの中の培養した粘菌の移動や


消滅ぐらいのことなんだろうか・・・・・・・


 


なんにせよ、個人が豊かに生きるためにはその人なりの「テクノロジー」を増やすべく


行動して行動して、試行錯誤して、あれがだめなら、こっちを試し、これがだめなら何でダメなのか


原因を考察し、解決策を仮説設定して、実験して確かめて、また考察して確かめて行動して、


仮説を組んでってやっていくことなんでしょうね。


 


そんなこんなでジタバタするたびに実は、その個人の経験が増え、その経験に比例して適切な


その人の状況に適合した、ユニークなテクノロジーが蓄積し、その事イコール富の増加なんだろうなあ・・・・・


とツラツラ考えてしまいました。





他の存在にとって有意義で社会全体にとって「富」を増やすベクトルに寄与する行為は


その行為を行ったものに「報酬」を払うらしい。


 


貨幣だけにもちろん限らないが、今日の命を繋ぎ、健康を保ち明日につなげるためのリソースは全て


富の一部だと思う。


フラーが言うには形而下の「物」だけでなく、実は富の本質は自然にある「物」を人間の生活に


役立つように作成するノウハウ「形而下の概念」こそ富の本質だという。


 


そして「富」がそうなら試行錯誤しながらでも、とにかく行動し、経験を積むことが


「富」を増やす行為に他ならないともとれる。


 


その経験を振り返り、分析、考察、改善していくプロセスも「富」を増やす行為そのものだとも思える。


 


私達はすでに億万長者になるパスを持ちながら、それを使わずに震えているのかもしれない。