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広島県になんと日本人で唯一?といっていい、フラーの晩年に深くかかわった梶川さんという人が
いるということを知りました。
私も但馬という中山間地の見本のようなところに住んでいますが、梶川さんも広島の郡部で生活しつつ
いろいろな試みをされているそうです。
一度お会いして、お話をきいてみたい方のNo1かもしれません。
フラーの著書の翻訳者でもあります。
フラーの主張の一つにプリセッションがあります。
これは例えばミツバチが花に蜜を求めて渡り飛び廻るとき
同時に花の受粉をミツバチの物理的移動によって成し遂げること
があげられます。
ミツバチの利己的な行動が図らずも自然界の植物の繁殖になくてはならない
一つの工程を受け持っているとのことです。
そしてこの効果がいわば始めの行為に対して直角とも言える
向きに他の存在に対して働きかけているというということ、
そしてこの世界は無数のこのプリセッションな働きによって
当事者には図らずもデザインされて保たれているという事実のことです。
フラーの非凡なところはこの副次的とも言えるプリセッショナルな
働きこそが自然=創造主とも言える存在の意図し、世界に働いている
法則であると考え、逆に自然が求めるデザインに沿った働きを
か弱い個人でも引き受け、意図的に主体的に起こしたならば
モーターの駆動軸を回せば逆に電気が発生するように
その個人とその扶養家族が生活する糧を他の誰も与えない場合に
偶然ともいえる形にでも与えるだろうと考察し、実際に自分の人生を
丸ごと実験に使い、成果を上げたことだと思います。
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二千数百年前、インド大陸に生まれたある人物は
人間には生まれながらに一生かかっても使い切れないほどの
豊かな財産がそれぞれの心の中にあると言った。
バックミンスター・フラーはそれをおそらくマインドと呼んだのだろう。
つまり、私達を困窮たらしめている大元を辿れば
それはつまり社会から成長するにつけて植え付けられた
条件反射的思い込みによるものと言うことだ。
昨年から、ブログを書いてきたが
タイトルと内容があまりにもかけ離れてきてしまったので
タイトルを変えた。
私がバックミンスター・フラーを知ったのは
ある意味マルチの有名人とも言えるロバート・キヨサキの
記事の紹介からなので、全く正反対ともいえるベクトルからの
飛躍なので、これも私のこの時空に生まれたことそのもの
(運命)なのかもと思う。
これ以上ないくらいの資本主義の中からでも、このような
センスに引き寄せられてしまうのだから。
変な時間に寝てしまった。
今起きたけどまた寝ようかどうしょう。
またまた雨です、ちっとも晴れません。
いつになったら晴れるんでしょう?
「Think global, act local」は人類の進むべき道ではないと
梶川氏は言っている。
私の理解では、この言葉ではまず(個々がその立場で想定できる)全体像を
思慮してから、その全体像に反しない行為をする。
こういうことが、メッセージとしてあると思われる。
しかし、これは裏を返せば、権力機構が提示した全体のイメージに
「個々が世界の地域のそれぞれで、素直に従え」というメッセージであると思う。
それから導き出される行動はエコポイントの期限内に車を購入しようと
駆け込んだり、割り箸をマイハシにするとかビニール袋をナイロン袋に持ち替えるという
だけで、その他の生活スタイルは一切変える必要は無いという、暗示への裏返しだ。
また、梶川氏はそれに対してあるべき姿として、シナジーが働いた酸素と水素の結合と
その結果としての水の比喩をよく用いている。
この場合、個々の要素である酸素と水素には、その結合である水の性質を予感させるものは
一切無い。
酸素と水素の結合からなる水、この働きはシナジーである。
シナジーによってより秩序だった生命にとっての欠かさざる決定的な「水」ができ
その次の段階としてより秩序だった生命が形成されうるのだ。
これを酸素と水素=個々の個人、水=より秩序だった人類をより発展させる社会
と置き換えると、個々人は来る社会というか結果をその事前には予期できないということになる。
つまり、事前に予期できる概念、そのための行動は望ましい結果を決して創生しないということになる。
では、個々人はマスコミで繰り返される「Think global, act local」以外に一体何を行動すればいいのか
となる。
そこで、やはりヒントになるのは酸素と水素の自然の振る舞いを考察することになる。
酸素と水素は水を作ろうとして、互いが結合するわけでは「ない」。
それぞれが自然経済的(=決して金銭的経済ではない)により安定した形を、より少ないエネルギーで
成し遂げる原理(more with less)にしたがって結合したのだ。
つまり、個々人が自然経済的にmore with lessを行動原理として活動し始めたとき
シナジーが働き、人類の社会が酸素や水素が結合して水が生成されたことのように
全く予想できないが、より本来の意味での富を増やす方向の形に変化するだろうということだ。
これが、つまりはフラーが(more with less)を何度も主張したことの意味であるように思う。
トヨタやビッグ3などの自動車の大企業の利益の大半は、購入者のローン(=借金)だ。
建設会社や大手ハウスメーカーの利益も購入者の借金だ。
購入者は銀行からお金を借りる。
銀行は預金者からお金を借りていると思われているが、
実際はその預金の何十何百倍も貸すことができ、実際そうしている。
そのある種ペテンとも言える行為が破綻しないのは、
その背後にある中央銀行に銀行でさえ、お金を借りているので
預金者の払い出しにもなんなく対応できるのだ。
中央銀行は誰にもお金を借りなくてよい、自らがお金を作れる唯一の存在だからだ。
しかし、彼らもそのお金の裏付けの「富」は作れないので、所有権という法が必要なのだ。
お金とはつまりは法である。
「Think global, act local」は人類の進むべき道ではないと
梶川氏は言っている。
私の理解では、この言葉ではまず(個々がその立場で想定できる)全体像を
思慮してから、その全体像に反しない行為をする。
こういうことが、メッセージとしてあると思われる。
しかし、これは裏を返せば、権力機構が提示した全体のイメージに
「個々が世界の地域のそれぞれで、素直に従え」というメッセージであると思う。
それから導き出される行動はエコポイントの期限内に車を購入しようと
駆け込んだり、割り箸をマイハシにするとかビニール袋をナイロン袋に持ち替えるという
だけで、その他の生活スタイルは一切変える必要は無いという、暗示への裏返しだ。
また、梶川氏はそれに対してあるべき姿として、シナジーが働いた酸素と水素の結合と
その結果としての水の比喩をよく用いている。
この場合、個々の要素である酸素と水素には、その結合である水の性質を予感させるものは
一切無い。
酸素と水素の結合からなる水、この働きはシナジーである。
シナジーによってより秩序だった生命にとっての欠かさざる決定的な「水」ができ
その次の段階としてより秩序だった生命が形成されうるのだ。
これを酸素と水素=個々の個人、水=より秩序だった人類をより発展させる社会
と置き換えると、個々人は来る社会というか結果をその事前には予期できないということになる。
つまり、事前に予期できる概念、そのための行動は望ましい結果を決して創生しないということになる。
では、個々人はマスコミで繰り返される「Think global, act local」以外に一体何を行動すればいいのか
となる。
そこで、やはりヒントになるのは酸素と水素の自然の振る舞いを考察することになる。
酸素と水素は水を作ろうとして、互いが結合するわけでは「ない」。
それぞれが自然経済的(=決して金銭的経済ではない)により安定した形を、より少ないエネルギーで
成し遂げる原理(more with less)にしたがって結合したのだ。
つまり、個々人が自然経済的にmore with lessを行動原理として活動し始めたとき
シナジーが働き、人類の社会が酸素や水素が結合して水が生成されたことのように
全く予想できないが、より本来の意味での富を増やす方向の形に変化するだろうということだ。
これが、つまりはフラーが(more with less)を何度も主張したことの意味であるように思う。
トヨタやビッグ3などの自動車の大企業の利益の大半は、購入者のローン(=借金)だ。
建設会社や大手ハウスメーカーの利益も購入者の借金だ。
購入者は銀行からお金を借りる。
銀行は預金者からお金を借りていると思われているが、
実際はその預金の何十何百倍も貸すことができ、実際そうしている。
そのある種ペテンとも言える行為が破綻しないのは、
その背後にある中央銀行に銀行でさえ、お金を借りているので
預金者の払い出しにもなんなく対応できるのだ。
中央銀行は誰にもお金を借りなくてよい、自らがお金を作れる唯一の存在だからだ。
しかし、彼らもそのお金の裏付けの「富」は作れないので、所有権という法が必要なのだ。
お金とはつまりは法である。
