[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
梶川氏が述べているように、芸術は他者への共感を求める、または
何らかの影響を期待する行為だと思う。
「私はこう感じる、アナタはどう思う?」これが芸術。
自分と他者
対して科学は自分対世界つまりは神に向かうことといわざるをえない。
そこに他者の反応に期待する必要はない、極私的なことなのだ。
私たちは等比数量的変化のまっただなかに生きているらしい。
フラーの言うことは本当だとまた改めて実感した。
確かに受け入れる態度の人間は、対象の概念を無意識にでも
自分の意見として認識して、自らの発案のように話すことは
日常でもとてもよくある出来事だ。
しかし、それは人間社会ではごくありふれすぎたことであるし
影響力のある人物ならそんなことは、それこそありふれすぎる
くらいありふれたことだろう。
そもそも、描写の模倣は咎められずに概念の記述の模倣は
なぜ咎められるのだろうか。
そもそも、概念の伝播と呼ぶべきものを単に模倣と
断言してしまう恐れがないだろうか。
直感からの共感と単なる模倣を分け隔てる判断基準はなんなのか。
マインドは自己保身のための内容の精神活動が活発な時は
働かないようになっているらしい。
別の事象の関連を認識する高次な感受性は
私の祖父母の30代の働き盛りには 牛で田畑を耕していた
牛は毎日世話をする時間、餌としての草の調達に多大な時間を費やしていた
食事も火を起こして作っていた、その調理の時間もかなりのものだ
洗濯も手で洗っていた
現代の私達はそれらを機械で代理させることで何十分の一、何百分の一の
労力で生活を維持できているのだが、なぜだかその生活を維持するために
朝から深夜まで、休みなく働いている。
圧倒的に私達の生活を維持する「富」やサービスの生産が容易かつ
量的にも豊富になったのにも関わらず。
これで誰かが、何かがその「富」を搾取していないと思うほうが
どうかしている。
ラウンドアップという除草剤がある
全国どこのホームセンターにいっても必ずといっていいほど
売っているものだ。
これが日本で広まったのはごく最近のことだ。
このラウンドアップとこの薬が効かない遺伝子操作された
新種のサトウキビとが組み合わされば、エコロジーに
かなう希望の技術と見なされがちな不耕起栽培も
いきなりきな臭くなる。
ラウンドアップを開発したのはモンサント社というアメリカの大企業で
この会社は枯葉剤を開発しベトナム戦争で巨利を得た。
これがただの偶然であればどれだけいいかと思う。
「私というのは、動詞のようだ。」
バックミンスター・フラー
私達の体を構成している材料である原子は森羅万象と融通しあっている
実質共有材とも言うべきものだ。
だとしたら、個人を個人たらしめているのはその活動内容だと言える。
要は生きて、何をやったかが「その人」の全てなのだ。
テイラーが始めた知識の仕事への適用は莫大な富と、産業社会の
発展を加速したが、未だに中小の工場の生産現場では
未だに管理者の経験からくる熟練した技術、個人の資質に
頼っている。
これだけ情報が容易に流通する社会においても、成果を上げる本質は
伝達しにくいようだ。
フラーのことを知ってから、「テクノロジー」という言葉に今までとはちがう
興味と印象を持たざるをえなくなっている。
wikiの「テクノロジー」の項目を読むと、「人類の歴史って結局「テクノロジー」の
発見、発展のログだよなあ・・・・・・」と思ってしまった。
アレキサンダーやカエサルやオクタウィアヌス、始皇帝や劉邦、チンギスハーン、徳川家康・・・・
歴史の覇者や為政者とかの偉業も地球の外からみれば、研究室でのシャーレの中の培養した粘菌の移動や
消滅ぐらいのことなんだろうか・・・・・・・
なんにせよ、個人が豊かに生きるためにはその人なりの「テクノロジー」を増やすべく
行動して行動して、試行錯誤して、あれがだめなら、こっちを試し、これがだめなら何でダメなのか
原因を考察し、解決策を仮説設定して、実験して確かめて、また考察して確かめて行動して、
仮説を組んでってやっていくことなんでしょうね。
そんなこんなでジタバタするたびに実は、その個人の経験が増え、その経験に比例して適切な
その人の状況に適合した、ユニークなテクノロジーが蓄積し、その事イコール富の増加なんだろうなあ・・・・・
とツラツラ考えてしまいました。
他の存在にとって有意義で社会全体にとって「富」を増やすベクトルに寄与する行為は
その行為を行ったものに「報酬」を払うらしい。
貨幣だけにもちろん限らないが、今日の命を繋ぎ、健康を保ち明日につなげるためのリソースは全て
富の一部だと思う。
フラーが言うには形而下の「物」だけでなく、実は富の本質は自然にある「物」を人間の生活に
役立つように作成するノウハウ「形而下の概念」こそ富の本質だという。
そして「富」がそうなら試行錯誤しながらでも、とにかく行動し、経験を積むことが
「富」を増やす行為に他ならないともとれる。
その経験を振り返り、分析、考察、改善していくプロセスも「富」を増やす行為そのものだとも思える。
私達はすでに億万長者になるパスを持ちながら、それを使わずに震えているのかもしれない。
